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旅への誘い (9) イタリア点描 (H24・5・5寄稿)

政府が大きな借金を抱えるイタリアは2011年秋、国債が売り込まれ、金利が一時、危険水準に高騰したが、政権も変わり、年金改革や増税などの取り組みで危機を封じ、何とか欧州の危機感染源の恐れを取り除くことに成功した。

欧州連合の各国は、危機を招かないよう財政を健全化する協定に署名し、財政赤字を一定の割合に抑える目標を掲げることを決めた。また、欧州の債務危機を踏まえて経済・財政の統合を加速させる意をもって、通貨ユーロの導入国が一体となって資金調達する「ユーロ圏共同債」を導入する考えを示した。

このような背景を踏まえた「イタリア財政危機の現状」に興味を抱き、イタリアを縦断しての地方都市探訪を試みたが、「危機意識」のあるのは中央政府だけで、一般国民にとっては馬耳東風、おおらかな国民性・イタリア人気質を認知することとなった。

1870年のイタリア統一まで各地で独自の文化を育んできたイタリアは、地方ごと、町ごとに個性豊かな表情で旅人を迎えてくれる神秘的で魅力溢れる国である。

ここでは取材内容の説明を省き、名所旧跡を点描して旅への誘いをしてみたいと思う。

イタリア人自らもロ・ステーヴァレ(長靴)と呼ぶイタリア半島の上部・ロンバルデア州から踵の部分・バジリカータ州、プーリア州に掛けての長旅である。ミラノには2度、ローマは3度目の旅となる。

治安の悪いイタリアながら、底抜けに明るく陽気でフレンドリーな人々との出会いは、旅を続ける者にとってオアシスのように感じられ癒される。美味を求める人々の生活リズムのなかで、連日、パスタとピザを食することになったが、低廉で種類が多く食べ飽きることがなかった。それに加えワインとビールが安くて旨く鯨飲することとなった。

旅情誘う青い海と太陽の楽園に身を委ねた今回の旅では、多くの世界遺産に触れながら未知の世界に遊ぶことができた。

 

イタリア北西部

ミラノ(ロンバルデア州)

モードの都ミラノは、政治の中心ローマに対してイタリア経済をリードする産業都市として国内でも重要な位置を占めており、観光客にとっての魅力も凝縮されている。

イタリア・ゴシック建築の最高傑作といわれる「大聖堂・ドオモ」は、教会建築としてはローマのサン・ピエトロ大聖堂に次ぐ規模で威容を誇っている。ネオ・クラシック様式のオペラ劇場「スカラ座」は隣接するスカラ座博物館と共に歴史を物語ってくれる。ドオモ広場とスカラ座広場を結ぶ十字型アーケード「ガレリア・ヴィットリオ・エマヌエーレ2世」は、天井はガラスと鉄のドーム型、床にはモザイクと大理石が敷き詰められていて、優雅なカフェやブテックなどが軒を連ね、往時の華やかさを感じさせてくれる。また、サンタ・マリア・デレ・グラッツエ教会のドメニコ会修道院では、ダ・ヴィンチの最高傑作「最後の晩餐」を見ることができる。

 

イタリア北東部 > 

ヴェローナ(ヴェネト州)

古代の円形劇場「アレーナ」で催される野外オペラや「ロミオとジュリエット」の舞台となった町として世界的に有名である。ヴローナのシンボル的存在の「アレーナ」はローマの「コロッセオ」に次ぐ巨大な規模を誇るローマ時代の円形劇場の遺跡で、2万人余り収容できる劇場では毎年野外オペラが上演されている。「ロミオと・・・」の舞台としても有名で、ジュリエットのモデルといわれている娘の家「ジュリエッタの家」が一般公開されていて、シェイクスピアのファンが数多く訪れている。また、サン・ピエトロの丘に建つ「ローマ劇場」からは、蛇行するアデジェ川や街並みが一望できる。

ヴェネツア(ヴェネト州)

 スイス、オーストリア、スロヴェニアと国境を接し、アドレア海に面した北イタリア地方は国際性豊かな雰囲気に溢れ活気に満ちている。中でも海運で栄えた華やかな歴史を誇る州都ヴェネツアは別格である。細い路地と大小の運河がめぐる町には自動車の乗り入れができないため、公共の交通手段は運河を行く水上バスである。町の中心はヴェネツアの表玄関であり祭礼や公式行事の場でもある「サン・マルコ広場」で、周りには床も壁も眩いばかりのモザイクで埋め尽くされた「サン・マルコ寺院」や政治の中枢として政庁、裁判所が置かれていた「ドカーレ宮殿」の建物が威容を誇り、中央には高さ96mの大鐘楼が立っている。観光用の「ゴンドラ」に乗ると、漕ぎ手が唄うカンツーネを聞きながら水の都の風情を楽しむことができる。また町なかには有名なヴェネツアングラスの工房があり制作工程の見学や逸品を求めたりすることができる。

    

イタリア中部

レンツ(エミリア・ロマーニ州)

まず、アルノ川を見下ろす小高い丘の上にある「ミケランジェロ広場」に足を向ける。 広場の中央にはミケランジェロの「ダビデ像」が立っていて、対岸に広がるフレンツの市街を包含した素晴らしい景色を一望することができる。町の中心は八角形の内陣の上に巨大なクーボラが載ったサンタ・マリア・デル・フオーレ大聖堂「ドオモ」で、周辺広場にはいつも観光客で溢れている。今なお中世の形を残すフレンツ最古の橋「ヴェキオ橋」の両端には、間口の狭い宝飾店が軒を連ね賑わいを見せている。忘れてならないのは、世界三大美術館のひとつ「ウフイツ美術館」である。フレンツを舞台に開花したルネッサンス絵画の集大成ともいえる作品が展示されていて、真近に接することができる。絵心のない自分にとっても注目度高く、懐かしさを覚えた作品をいくつか紹介してみると、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」と「東方三賢王の礼拝」、ラファエロの「ひわの聖母」、ボエツリの「ヴィーナスの誕生」、ミケランジェロの「聖家族」、テツイアーノの「ヴーナスとキューピット」などがある。

 

イタリアの中心・首都

ローマ(ラツオ州)

イタリアの首都ローマは、古代遺跡や名だたる芸術家の作品が町中に散らばるイタリア観光の魅力を凝縮した大都会である。 映画「ローマの休日」ですっかり有名となり、世界中から観光客が押し寄せ「永遠の都」として人々を魅了し続けている

ローマの交通の要衝は国鉄の「テルミネ駅」である。国内外からの列車が発着するローマの陸の玄関口で、ホームは1〜29番まであり、構内には旅行者に必要な施設が集まっていて、いつも大勢の旅人で賑わっている。

地下鉄はローマ市内を2路線が網羅していてA線、B線がテルミネ駅で交差している。

オレンジ色表記のA線はヴァチカン市国、スペイン広場、トレヴィの泉などに向かう観光やショッピングに利用価値の高い路線であり、青色表記のB線はカラカラ浴場、コロッセオ、フォロ・ロマーノなどの遺跡群やヴェネチア広場に足を向けるときに便利で、初めて訪れる旅行者には利用しやすい交通手段である。

ローマの中心は「ヴェネツア広場」で、主要道路はここから放射状に広がっており、ロータリー広場には白い大理石の「ヴィトリオ・エマヌエーレ2世記念堂」が威容を誇っている。一流ブランド店が軒を連ねる通りや庶民的な繁華街を抱えローマで最も華やいでいるのは「スペイン広場」周辺である。スペイン階段の上には「トリニタ・デイ・モンテ教会」がそびえ立っていて見晴台からは町中が一望できる。また近隣の「トレヴィの泉」はバロック様式のダイナミックな噴水で周辺はいつも観光客で賑わっている。

古代ローマの狂騒を想像させるモニュメントの円形競技場「コロッセオ」、馴染みのサンタ・マリア・イン・コスメデン教会の「真実の口」、古代ローマの巨大娯楽場であった「カラカラ浴場」、現在も遺跡発掘が続けられている古代ローマの政治・経済・文化の中心であった「フォロ・ロマーノ」やオベリスクがそびえるローマの北の玄関口「ポポロ広場」などローマには新古典様式の広大な空間が広がっている。

ヴァチカン市国

世界で最小の独立国であり、カトリック教の総本山である。「サン・ピエトロ大聖堂」はミケランジェロ、ラファエロ、ベルニーニなどが手掛け、120年の歳月をかけて完成したカトリック教の主聖堂である。「サン・ピエトロ広場」は大聖堂前に広がる楕円形の広場で、オベリスクを中心として左右から列柱回廊が広場を包み込むような印象を与えている。約30万人を収容できる広場では、毎日曜日正午に法王の姿を拝謁することができる。「ヴァチカン博物館」は古代から現代までの芸術品を擁する世界最大の博物館で、27の美術館と博物館で構成されている。入口には色分けされた4つのコースが掲示されていて時間に合わせて効率よく鑑賞することができる。また、近隣には「サンタンジェロ城」があり国立博物館として公開されている。

 

イタリア南部

ナポリ(カンパーニア州)

州都ナポリは南イタリアの魅力を凝縮した港町であるが、かつて労働争議でゴミ集収が問題となり、町中に塵が溢れ世界の注目に晒された。今や南部観光の拠点として面目を取り戻しつつある。対岸には「青の洞窟」で知られるカプリ島や温泉保養地・イスキア島があり、テレニア海を臨む風光明媚な町である。中央駅から南に向かうとナポリ民謡で馴染みのサンタ・ルチア港で、海に突き出た小島に立つ「卵城」とヨットハーバーの眺望はナポリを代表する情景である。また、ナポリ湾からはポンペイを死の町と化したヴェスヴィオ山を遙かに望むことができる。 

ポンペイ(カンパーニア州)

 町は紀元前8〜7世紀からの歴史をもち、ワインや油の輸出で潤い、商業地、別荘地として栄えていたが、ヴェスヴィオ火山の大噴火で南麓の町が火山礫や火山灰の下に埋もれたことで有名である。古代都市の遺跡発掘により碁盤目のような街路に神殿や浴場や住宅が甦り、その昔の人々の生活の営みを追体験できるようになった。遺跡の入口・マリーナ門から坂道を上った先に「フォロ(公共広場)」がある。ポンペイの政治、経済、宗教の中心地だった場所である。フォロの正面にヴェスヴィオ山の雄姿がそびえ、界隈にはアポロ神殿やジュピター神殿、裁判や商取引が行われていた建物や裕福な商家の遺跡が立ち並んでいて、天災の恐ろしさを見る者に生々しく伝えてくれる。 

アマルフ(カンパーニア州)

 夕景の麗しいソレントの海岸線に連なるアマルフィターナ海岸の景勝を誇る中心都市で、エメラルド色の入江とレモン畑に囲まれた魅力溢れるリゾート地である。高級ホテルや別荘が建ち並ぶ開放的な港のジョイア広場から山側に向かうと東方の影響が色濃い町の中心ドオモ広場が開ける。広場を見下ろす世界遺産「ドオモ」の創建は6世紀で、入口の重厚な青銅の扉が目を引く。ドオモの正面に貼りめぐらされたモザイクが輝きを増すのは黄昏時で、西日が射す金色のモザイクは一見の価値がある。

  マテーラ(バジリカータ州) 

 乾いた丘陵地に広がる洞窟住居群が世界遺産に登録され、近年注目を浴びている。カルスト地形の谷間に重なる洞窟住居群「サッシ」は旧石器時代から時代を追って造られたもので、周辺には修道士が築いた岩窟教会が点在する。「ベルヴェデーレ展望台」からはカテドラルも含めたサッシ群の景観を見渡すことができ見飽きることがない。

  アルベロベッロ(プーリア州)

 「トルッリ」と呼ばれるとんがり帽子のような円錐形の白い民家が続く小さな村で、このメルヘンチックな光景は世界に類がなく世界遺産に登録されている。トルッリは、この地域で採れる石灰岩の薄手の石を積み上げた家で、屋根にはラテン文字やギリシア文字など不思議な図像が描かれていて興味深い。


    

 

 


  環境の変化への対応 H24・4・30寄稿)

成24年の大学入試センター試験では、問題冊子の配付ミスやリスニングテストの機器の未搬入、試験開始時間の繰り下げなどが生じ、多くの受験生に多大な迷惑を与え社会的にも波紋を呼んだ。今や、大学受験生の9割強が入学を果たす所謂「全入時代」であり、18歳人口の5割強が大学に進学しており、この4月には60万人程の大学生が誕生したとみられる。

一方、小規模校を中心に私立大の約4割強が「入学定員割れ」の状態にあり、昨年の政府・行政刷新会議では、少子化傾向の中の大学の数や規模の拡大、入学定員割れによる学力低下や赤字経営などの問題点が指摘された。

現在、大学を取り巻く社会環境は、少子高齢社会、グローバル化社会と情報の進展、世界の経済情勢の急激な変容など非常に複雑化しており、今後、急激に進展する少子化、超高齢社会、長寿社会といった人口構成や社会構造、産業構造の変化に大学はどう対応していくべきか、今後の進むべき基本的方向性が問われている。大学はこれまでの既成概念にとらわれない大きな構造改革に迫られることとなった。

文部科学省は現在、中央教育審議会の「学士課程答申」を踏まえ、大学の設置認可の厳格化、認証評価の改善・強化、機能別分化と大学間連携の促進、定員割れと定員超過に対する改善促進に向けた補助金の減額・不交付措置、私立大の「自立・発展」、「連携・共同」、「撤退」に対する支援、「教育情報の公表」の義務化・促進など、大学教育の質の保証・向上及び経営基盤の確立などの観点から、関連施策を講じつつ、大学の取り組みを支援している。

国立大は国からの財政措置に大きく支えられ、国家的見地に立った人材養成、教育研究の国際競争力の強化、国家戦略上の中長期的な教育研究、最先端技術の研究開発、大規模施設・設備・経費を要する教育研究を担う。

公立大は主に地方自治体の公的資金に依存しており、地域社会の特質に応じて、地域医療や看護・福祉の充実、産業の活性化などに対応している。

私立大は受益者負担を前提にしつつ、建学の精神に基づいて多様な教育研究を展開し、大学教育の7割以上を担っている。  

こうした設置形態によって大学の役割・使命はそれぞれ異なるものの、その共通理念は教育基本法・大学条項や学校教育法などで裏打ちされている。

大学はこうした文部行政と超少子高齢社会及びグローバル化の中にあって、今後、どのような道を進んでいくべきか?

現行の「大学進学適齢期」は一般的には18歳であるが、18歳人口の減少や超高齢化社会の進展を踏まえるならば、入学者や学習者層の新たな開拓が必要となる。「何時でも、何処でも、誰でも」学べる多様な就学形態が可能となるシフト作りが求められ、これまで以上に「生涯学習」や「リカレント教育」などに積極的に取り組み、社会に向けた「門戸開放」を推進していくことが、これからの大学の重要な役割・使命の一つであるといえる。

いずれにしろ、これからの大学は脱18歳、門戸開放、生涯学習、高齢者・市民教育及びグローバル化対応などをキーワードに、それぞれの大学の機能と特色に合わせて、受験生や学生、社会から期待される多様なニーズに対応し、教育研究の質の維持・向上とそれを支える組織・経営基盤の強化に努めていくことが重要である。

そして、大学は自校の機能的な特色を発揮すべく改革を不断に行い、それらを大学の外に向けて積極的に分かりやすく発信していくことが大事である。

他方、社会は合格難易度に基づく大学の「入口偏重型」の評価や尺度だけでなく、大学の「中身」であるカリキュラム編成、開設科目のシラバス、単位制度の実質化や「出口」となる学修成果の学士力、学位授与、就職、進学なども視野に入れた多元的な「評価尺度」で大学を評価すべきである。

大学の存亡は、環境変化への対応、教育研究の質保証、財務の健全化などの取り組みや成果が社会にどう評価されるか、大学としての存在価値が認められるかどうかに掛っており、社会の「評価」と「選択」によって決まってくるといえる。



への誘い(8) スロベニア、クロアチア点描
                         (
H24・3・06寄稿)

 

バルカン半島のアドリア海に面した地域に、かつて多くの民族が共存し複雑な事情を抱えたユーゴスラビアという国が存在していた。

旧ユーゴスラビアの歴史年表を紐解くと、11世紀頃から戦争により周辺諸国に翻弄された複雑怪奇な足跡を見ることができるが、残念ながら自分の筆力ではとても説明できる内容には至らない。ナチスの傀儡政権にチトーが率いるパルチザンが徹底抗戦して1945年にユーゴスラビア連邦人民共和国が成立したが、1963年に社会主義連邦共和国と改称した。その後1991年にスロベニア共和国とマケドニア共和国が独立。1992年にはボスニア・ヘルツエゴビアとクロアチア共和国が独立。2003年ユーゴスラビアが国名をセルビア・モンテネグロに変更。2006年にモンテネグロ共和国が分離独立して現在に至っている。

歴史の波に飲み込まれ、周辺の大国に翻弄されつつも、独自の文化と伝統を守り続けて歩き始めた旧ユーゴのうち、社会状況が急速に改善され、平穏であるといわれているスロベニアと隣接するクロアチアをオーストリア経由で探訪することとした。

 

スロベニア

(リュブリアーナ)

スロベニアの首都で、ハブスブルグ家の支配時代が約500年の長きに亘って続いた都市である。赤レンガ屋根の家々が並び、緑に溢れる街は落ち着いた佇まいを見せており、リュブリニッツア川に沿って「市庁舎」や「聖ニコライ大聖堂」がある。旧市内を見下ろす小高い丘に建つ「リュブリアーナ城」は町のランドマークである。町の中心には国歌の作詞者の名前を冠にした「プレシェーレン広場」が位置し、周辺にはピンク色の外観が印象的な「フランシスコ教会」や広場と旧市街を結ぶ「三本橋」などが建っており、コンパクトに纏まった美しい空間を作り出している。

(ブレッド)

ユリアン・アルプスに位置するブレッドは、山の緑を映し出して青く輝く「ブレッド湖」を中心としたスロベニア屈指の保養地で、湖を見下ろす断崖に建つ「ブレッド城」と湖上の小島に建つバロック様式の可愛らしい「聖マリア教会」が彩りを添えている。また、スロベニアのシンボルで日本の富士山に匹敵する最高峰・トリグラウ山も遠望することができる。

(ボストイナ)

リュブリアーナから約1時間。石灰岩の大地が広がる山間に「ボストイナ鍾乳洞」がある。ピウカ川の浸食により形成された洞窟で、ヨーロパで最大、世界第3位の規模を誇っている。幻想的な洞内はトロッコ電車での見学となり、変化に富んだカルスト地形や地底の大広間など、自然の驚異に圧倒されながら見応えのある神秘的な情景を目にすることができる。

 

  クロアチア

(ザグレブ)

カプトルとグラデツという二つの集落が統合してザグレブとなり、1776年にクロアチアの首都として発展を遂げた。ザグレブは南北に長いので、市内を網羅する路面電車「トラム」が市民の足となって活躍している。カプトル地区の丘に建つ「聖母被昇天教会」は、ザグレブのシンボル的存在で105mの尖塔が印象的である。グラデツ地区の丘に建つ「聖マルコ教会」は、クロアチアの紋章が屋根を彩る美しいモザイク装飾が特徴的である。「共和国広場イエラチッチ」は、カプトルとグラデツの丘の中間にある広場で、町のほぼ中心にあり、クロアチア独立運動家・イエラチッチの像が立っている。周囲はカフェテリアやレストランが取り囲み、市民の憩いの場となって賑わっている。

(シベニク)

アドリア海の貿易港として発展し、今も自由港として多くの船舶が停泊している。町のシンボルである「聖ヤコブ大聖堂」は、世界遺産に登録されている巨大な聖堂で、聖アンナ要塞からは聖堂はじめ旧市街を一望することができる。大聖堂の入口に建つアダムとイブの像はアドリア海沿岸地方独特のものといわれていて目を引く。

(トロギール)

長い歴史を背負った島であるが、陸地とトロギール橋で繋がっており、周囲は城壁で囲まれている。中世そのままの旧市街は世界遺産に登録されており、市庁舎や時計塔、数々の教会が点在している。「聖ロブロ大聖堂」の扉に彫られたアダムとイブの像はクロアチア宗教美術を代表する傑作といわれ必見に値する。

(スプリット)

アドリア海沿岸の中心都市でクロアチア第二の都市である。街の中心に位置する「デイオクレテイアヌス宮殿」は旧市街と同化しており、宮殿の一部は民家やカフェになっていて多くの人で賑わっている。中央には高層のジュピター神殿が威容を誇っている。

(ドウブロヴニク)

クロアチアの南端に位置し「アドリア海の真珠」と称えられ、海洋都市国家として栄えた歴史をもつ。街の背後に小高くそびえるスルジ山から見下ろす旧市街は、要塞に囲まれ、赤い屋根の家が並ぶ中世の街並みと真っ青なアドリア海のコントラストの美しさはまさに地上の楽園を彷彿させる。ピレ門から旧港に通ずるプラツア通りは多くの観光客で賑わい国際通りの様相を呈している。周辺では、ロマネスク様式の「フランシスコ会修道院」、ゴシック様式の「ドミニコ会修道院」、バロック様式の「大聖堂」など様式の異なる建造物や「スポンザ宮殿」や「旧総督邸」などの由緒ある施設を目の当たりにすることができる。

(ブリトヴ

 ザグレブとザダルの中間に位置する景勝地「ブリトヴ湖畔国立公園」は、深い森に映える16のエメラルドグリーンの湖が階段のように並び、そこから勇壮に流れ落ちる無数の滝との対比が美しく、そのダイナミックな光景を目の前にして心が震える。滝と青い湖の風景が広がる園内は、ネチャーウオッチングやトレッキングを楽しむ人たちの憩いの場となっており、エコロジーバスも巡回している。

 

 同じ国から分離独立した国とはいえ、EU加盟のスロベニアと未加盟のクロアチアでは国情が異なり、旅程に向けての交通手段の確保に難儀したり、通貨や国境検問の複雑さに閉口したり、大半のホテルの設備が不十分であったりと種々苦い経験を積み重ねたが、四つの世界遺産に触れる機会を得ると共に、中世の落ち着いた風情を楽しみながら癒しの世界に身を置くことができた。訪れた各地の人々は一様にフレンドリーで、物価は廉く、食べ物が豊富で料理は美味であった。

 

さまざまな民族、文化が混じり合い複雑な様相を見せる東欧諸国は未だ未開発で、国ごとに違った魅力に溢れていて、未知との遭遇を求める者にとっては大きな収穫を得ることができる。http://moriguchi-ph.com/







   
 への誘い(7) カンボジア点描〜(H24・2・2寄稿)

 

フランスの支配下にあったカンボジアは、1953年に独立を果たしたものの、人々の暮らしを脅かすベトナム戦争に巻き込まれたり、ポルポト政権下で大量虐殺が行われるなどで国内は混乱を極めた。その後、紛争解決に国連が乗り出し1993年には新たなカンボジア王国が誕生した。現在は長い内乱に終止符が打たれ、復興に向かって進行しながらのどかな日常を取り戻しているものの、内戦時に埋められた地雷が未だ多量に残っていて、延々と地道な除去活動が続けられている。

熱帯モンスーン気候に属し一年中高温で豊かな自然が息づくカンボジアは、インドの文化の影響を受けながら土着文化と融合させて独自のクメール文化を創り上げ発展させてきた。宮廷舞踊「アプサラ」は宮廷文化の中で生まれ、庶民文化の象徴は影絵芝居である。また、インドやタイの影響を受けて発展したカンボジア料理は、素材を活かした甘酸っぱい味が特徴で、豊富な自然の恵みを受けて多彩な味が楽しめる。

ベトナム旅行の途中、南都・ホーチミンで離陸地・北都ハノイまでの旅程を再確認し、隣接国カンボジアに寄り道をしてアンコール遺跡群の探訪を試みることとした。日限の関係で首都プノンペンに立ち寄るゆとりもなく、ホーチミンから遺跡観光の拠点シェムリアップに直行した。所要時間はホーチミンから空路約1時間である。

観光の起点となるシェムリアップの町は小さいものの、外国からの観光客も多く、ホテルやレストランなどの施設の充実が目を引く。シェムリアップ川のほとりに位置する「オールド・マーケット」は、野菜や魚介類など生鮮食料品が所狭しと並べられ早朝から賑わい、周辺には民芸品店も多く瀟洒なカフェやレストランが軒を連ねている。町はずれの小高い丘にはヒンズー教のピラミッド形の寺院「プノン・バケン」が建ち、頂上からはアンコールワットが一望できる。特に夕陽を眺める絶好のビューポイントである。

アンコール遺跡観光には、検問所でチケットを購入する要がある。1日券20US$、

2〜3日40$、4〜7日60$の3種類で、1日券以外は顔写真付きのパスとなる。

案内所にはツアーガイドが常駐し、遺跡内では巡視員が常時指導に当たっている。

 主たる目的はアンコールワットとアンコールトムを訪ねることであったが、2日間の滞在で周辺に点在する遺跡も効率よく巡ることができ思わぬ収穫を得た。

 

アンコールワット

歴代の王たちが神々と交信し、神と一体化を図る場所として寺院や祠、池などを作り上げてきた。それが最も顕著に示されているのがアンコールワットである。 

密林に覆われ、荒廃したアンコール朝の都城に光が射したのは1860年である。

周囲を囲む環濠の内部には参道、回廊、中央塔があり5基の尖塔がそびえ立っていて、規模の大きさ、調和のとれた建築美、壁を飾る浮彫りの美しさに感嘆する。

 ヒンズー教寺院として建立されたアンコールワットは、のちに仏教施設に宗旨替えしているが、三重の回廊周壁には、ヒンズー神話に基づくクメール軍や天女アプサラを描いた精密なレリーフが絵巻のように刻み込まれていて、訪れる人々を魅了する。

 

<アンコールトム> 

  アンコール朝の絶頂期に造営された都城で、総延長12kmにもおよぶ環濠と城壁に囲まれていて、その中心には仏教寺院「バイヨン」が建ち、慈悲深い微笑を浮かべた観世音菩薩の四面仏が四方を見渡している。複雑な建築様式を備えた仏教遺跡には異様な迫力がある。

祭礼が執り行われた「ピミヤナカス宮殿」から続く「ライ王のテラス」は石段状の遺跡で、横には巨大象のレリーフが印象的な「象のテラス」が並んでいて壮観である。

四面像を最頂部に配した「南大門」は、アンコールトムに続く五つの門の中で最も美しく、参道は阿修羅の石像群で飾られていて厳かな雰囲気が漂っている。  

   

<探訪した周辺の主な遺跡>

「スリ・スラン」王が沐浴した聖なる人工池で、池の周囲は砂岩で縁取りがされていて階段が水中まで続き、水底には石が敷き詰められている。

「バンテアイ・クデイ」僧坊の砦の意をもつ仏教寺院で、塔門の頂きには観世音菩薩の四面仏が笑みをたたえている。4重の周壁に囲まれた中央に祠堂がある。 

「タ・プロム」発見当時の景観保存の方針に基づき最小限度の修復に止めたことにより、回廊が巨大なガジュマルの木に押し潰されている様子を見ることができる。

「タ・ケウ」アンコールワットによく似た様式の未完成寺院跡で、外壁にまったく装飾がないのが特徴である。

「バンテアイ・スレイ」女の砦の意をもつ赤色砂岩のヒンズー教寺院で、壁面に施された彫刻は精緻を極め中央神殿の女神像は「東洋のモナリザ」と賞賛されている。                                

 

現在は敬虔な仏教国として知られているカンボジアであるが、アンコール遺跡群には仏教とヒンズー教が融合した寺院や建造物が多く見られ、多くの遺跡がヒンズー教からのちに仏教施設に宗旨替えしたものであることが見て取れる。 

アンコールワット、アンコールトム周辺の主だった遺跡を巡るには2日は必要で、アンコールに遷都する前に王都であったロリュオス遺跡まで訪ねるとさらに1日を要す。

 

カンボジア・シェムリアップには歴代王たちが残した寺院や祠が数多くあり、時代や建築様式の異なる遺跡を巡るほどに、王朝の存在感を実感することができる。

   

  


  旅への誘い(6) ― ベトナム〜(H24・1・07寄稿)

 

約1,000年にも及ぶ中国支配から独立し、ベトナムと称するようになって束の間、1858年フランスが侵攻し、ベトナム、カンボジア、ラオスの一部を植民地化して仏領インドシナ連邦とした。これに対抗してホーチミンがベトナム共産党を結成して独立運動を展開し、インドシナ戦争が勃発した。終結後アメリカが介入し南北分裂国家の時代となった。アメリカの庇護によるサイゴン政権の支配に抗議し、南ベトナム開放民族戦線が誕生した。その後、アメリカの全面介入により戦争は拡大・長期化したが、1975年に南ベトナムのサイゴンが陥落し戦争は終結した。翌年には南北統一を果たしてベトナム社会主義共和国が建国された歴史を持つ。長く激しい戦争の舞台となり、人間も自然も大きく傷つけられたベトナムである。

以後、近隣諸国との紛争や経済破綻など様々な難問を抱えて苦難が続いたが、打開のための改革・開放政策(ドイモイ)を実施することにより、市場経済の導入や西側からの資本・技術導入などで都市には活気があふれ、今やアジアで最も注目を集めている国といえるかも知れない。

私の「ベトナム戦争」に思いを馳せ、心に残る諸問題に終止符を打つためにベトナム南部の都市・ホーチミンと北部の都市・ハノイを訪ねることとした。

 ベトナムは南北に長く、国土の4分の3は山で覆われており、南北異なる気候・風土の中、54の民族からなる多民族国家である。山岳地帯に暮らす少数民族は今なお独自の文化、暮らしを守って生活をしている。ベトナム国民は一応に素朴で穏やかな国民性を持ち合せていて親しみやすい。フランス料理の影響を受けたベトナム料理は生野菜と香草を活かした料理が多いのが特徴で、香り豊かで繊細な薄味は日本人の舌に馴染む。色々のグルメの中でもベトナム風うどん「フォー」や生春巻はぜひ食して欲しい。

 旅すがら限られた範囲で見聞した事物を点描することとする。

 

< ホーチミン >

 ホーチミンはベトナム最大の都市である。19世紀にはフランスの植民地となり、その後ベトナム民主共和国の首都サイゴンとして栄えたが、ベトナム戦争終結後、ホーチミン市と名前を変えた。かつて「東洋のパリ」と呼ばれた南の中心都市で、街には植民地時代の建物とともに現在の経済の発展ぶりを示す高層ビルが建ち並び、ベトナム経済の中心地として首都ハノイ以上に活気に満ちている。観光スポットの多くは街の中心部に集まっており効率よく見て回ることができる。

 「統一会堂」はフランスによる創建で、内戦が終結するまで大統領官邸として使用され、現在は博物館として一般公開されている。「サイゴン大教会」は19世紀に建てられた赤レンガ造りの優美なカトリック教会で、高さ40mの2本の尖塔が印象的である。

荘厳な建物に歴史を実感させる「中央郵便局」はフレンチスタイルの瀟洒な外観が目を引く。内部はドーム型の天井で広々として明るく、正面には建国の父ホーチミンの肖像画が掲げられている。泥沼化したベトナム戦争の残酷さや悲惨さを伝える戦時記録が展示されている「戦争証跡博物館」や「革命博物館」、庶民の熱気溢れる巨大マーケット「ベン・タイン市場」などが街の中心部にある。ホーチミン随一のショッピングストリート「ドンコイ通り」は美しい並木道で、沿道には洒落たレストランやショップが多く観光客で賑わっている。

 ホーチミンから北西に約1時間余り。ベトナム戦争当時、南ベトナム開放民族戦線の基地のあった場所「クチ」に着く。戦争中に北ベトナム勢力によって掘られた対アメリカ軍用の要塞地下トンネル網で有名な街である。全長250kmのトンネル内部は狭く暗く腰を屈め50m進むだけでギブアップした。このエリアは野外博物館となっておりゲリラ戦の罠や仕掛けなどが展示されていて戦争の生々しさを実感することができる。

 

< ハノイ >

 約1,000年の歴史を持つ街ハノイは、市内には川と湖が点在し、街路樹も多く、落ち着いた雰囲気がある一方、陽気な商業都市ホーチミンと異なり、共産国ベトナムの首都であることを強く意識させる厳格な空気が漂っている。ベトナム共産党本部や国会議事堂が置かれた政治の中心地であり、フランス統治時の古い建物が残り、歴史と文化の香る古都の佇まいを見せている。街の中心は「ホアンキエム湖」周辺である。

「ハノイ旧市街」は湖の北に位置し、ベトナム戦争中の爆撃にも焼け残り、町は昔ながらの風情を漂わせていてベトナムらしいショッピングを楽しむことができる。湖の南には洒落たレストランやギャラリーが軒を連ねていて、人力三輪車「シクロ」が行き来し観光客で賑わっている。「ホーチミン廟」は1969年に亡くなった建国の父・ホーチミン主席の遺体が安置されていて、ものものしい警備が行われている。「一柱寺」は蓮の花をモチーフにした仏堂で、一本の石柱で支えられていることからこの名がある。「文廟」は孔子を祀る目的で11世紀に創建された廟で、ベトナム最古の大学が併設されていた所であり参拝者が絶えない。農村の生活や伝承などを操り人形で演じる伝統芸能「水上人形劇」はコミカルなしぐさや動きが楽しく、無言劇ながら内容も理解できる。

ちょうど国立ハノイ大学の学園祭に遭遇し、アオサイ姿の教育学部の女子学生と懇談の機会をもつことができた。

 ハノイから約3時間余り。青い海面から大小幾千もの奇岩がそそり立つ、世界遺産のハロン湾がある。ハロンとは「龍が降りる地」の意味で、その風光明媚な素晴らしい景観は、中国の景勝地「桂林」に似ていることから「海の桂林」と呼ばれている。観光の起点はバイチャイとホンガイの二つの町であるが、奇岩の間を縫うように巡るハロン湾クルーズにはぜひ乗船して欲しいものである。

 

 敗戦から立ち上った実体験を胸に、長い戦禍からの復興著しいベトナムの現実に対峙したが、国境近くでは未だ数々の紛争が垣間見え、争いの虚しさを顧みる機会となった。

 

     

ト  伊那・分杭峠 〜(H23・6・12寄稿)

 

ピンピンコロリを期し、老いに「活」を入れようと梅雨の晴れ間を縫って「ゼロ磁場」という特異な空間のある長野県伊那市の「分杭峠」を探訪した。

一時期のブームは去ったとはいえ、ゼロ磁場地帯は「人が幸せになれる場所」ともいわれ、今も多くの人々が癒しを求めて訪れている。

分杭峠は、南アルプスの西側を走る伊那山脈の峠の一つで、標高1,424mの地点にあり、平成7年に中国政府公認の気功師・張志祥氏によって発見された良好な「気」が出ている場所で、周辺は世界でも有数のパワースポットといわれている。

パワースポット「分杭峠」は、日本最大・最長の巨大断層地帯「中央構造線」の真上にあり、全く異なる地層がぶつかり合っていて「地球のエネルギーが凝縮されている所」として知られており、この断層が、分杭峠に「ゼロ磁場」という空間を形成し、そこに「気」を発生する「気場」ができていると考えられている。

「気」は宇宙や大気、大地のもつエネルギーのことで、このエネルギーを体内に取り込むことで、心身の健康や超感覚などの能力を身に付けることができるとされている。

東洋医学の「ツボ」の刺激や気功、ヨーガ、太極拳などの心身の健康や脳の活性化のための様々な方法は、全て「気」を自分自身に取り込むためのノウハウである。

また、「気」は、健康、幸福、繁栄などをもたらす「幸福エネルギー」といわれていて「良い気」をいかに自分の守備範囲に取り入れるかの技法が「風水」である。

現代社会は、環境汚染や人工的な食物、電磁波などマイナスエネルギーで満ちており、

私たちが心身の健康をバランスよく維持していくためには、日頃から「気」の通りを良くしておくと共に、良好な「気」を取り入れることが必要であるといわれている。

現在の科学の水準では、まだ「気」そのものの正体の解明は推測の域を出ていないが、東洋医学においては長年の治療効果の実績等もあり、研究の進展による早期の解明が期待される。

目に見えないパワーを貰い、諏訪温泉で手足を伸ばし、再生したと思われる我が身をいとおしみながら帰路についた。


世界禁煙デーに寄せて(H23・5・28寄稿)

5月31日はWHO(世界保健機関)の「世界禁煙デー」である。

日本の17学会禁煙推進学術ネットワークは、数字の「2」を白鳥に見立て「スワン・スワン(吸わん・吸わん)で禁煙」と毎月22日を禁煙の日としている。

煙草は中南米が原産で、煙草が歴史上に登場したのは紀元前7〜8世紀頃で、マヤ文明の儀式や占いで使用されていたようである。15世紀末にコロンブスが新大陸を発見した時に持ち帰り、人々の嗜好品となって世界に広がっていき、日本には16世紀頃ポルトガルから種子島に持ち込まれたのが最初だと伝えられている。

 

以下は、我が娘(慈恵医大准教授)からの伝授である。

煙草には三悪と呼ばれる成分がある。

@タール(煙草の煙に含まれる化学物質で100種類以上の発癌物質を含む)

A 酸化炭素 (酸素を運ぶ血液中のヘモグロビンと結合し全身の酸素不足を招く)

B ニコチン(脳に作用し強い耐性、依存性、習慣性をもたらす) 

特にニコチンは、麻薬やアルコールと同様に依存性の薬物であり、依存性には精神的依存(習慣:口寂しい等)と身体的依存(ニコチン依存:イライラする、眠気覚まし等)がある。よって喫煙は嗜好ではなく「ニコチン依存症」という病気である。

禁煙するには、病院に赴く禁煙外来やインターネットでの禁煙支援システムがある。禁煙の初期には、ニコチンの離脱症状(イライラや喫煙欲求)が出現するが、ニコチンを一時的に補充し症状を軽減するニコチン置換療法(ニコチンパッチやニコチンガム)がある。また、飲み薬のバレニクリンはニコチン依存に関する受容体に作用し、ニコチン離脱症状に有効である。

喫煙は百害あって一利なし。禁煙・分煙の世の中、煙草税も上がったことでもあり、愛煙家の皆さんは、この際肩身の狭い思いからの脱却と健康な身体作りを試み、禁煙に挑戦してみては如何でしょうか? 強固な意志をもって「病気」と対峙してみては・・・。

ちなみに、愛煙家として名を成していた盟友・米谷理功兄が、老春を意義あるものにするため昨年禁煙に踏み切り、健康を取り戻して若やいだことを付記しておこう。

また、最近「石原軍団」が「禁煙軍団」と宣してTVに放映されていることに注目。

ご同輩には無縁?の学説ながら「喫煙は男性の生殖能力や女性の妊娠能力を下げる」も。


  同期会に参加して (H23・5・15寄稿)

恒例の「小津三十会・関東地区会」が開催され、高校時代の旧友達との元気な再会を愛でる機会を持つことができた。 

東京に暮らして55年余。激変する環境に戸惑いながらも必死に歩みを続けてきたが、順風の時も苦難の時も、何時も寄り添い支えてくれたのは「故郷」である。私を育んでくれた故郷は、私の生き方の手本であり、遠くにいても深い意識の中にある。

同期会では、仲間と過ごした四季折々の情景が走馬灯のように甦ると共に、各々が持ち寄る「故郷の香り」に満ち溢れ、何時も元気が貰え感謝の気持ちで一杯になる。

経年により、それぞれの生活環境や体調に変化が生じ、加齢を伴うライフスタイルやサイクルに工夫が散見されるようになった今、参加者も年々減少傾向にあり、顔ぶれも徐々に固定化されてきたように思う。

昨年の同会では幹事の重責を担い、自分で調べ、自分で考え、そして行動するという「自調・自考」の意識を涵養し、「老い」に立ち向かって欲しいという願望を込めた企画をさせて頂いたが、内容が悪かったのか、他者依存で個人行動に不安が先行したのか、想定したほどの参加者の確保叶わず、些か寂しい思いをしたものである。

「一人遊びのできる人には豊かな老後が約束される」といわれる。

生涯学習社会・高齢化社会にあって、70代、80代でもパワフルに一人で行動して、一人遊びを楽しんでいる人が結構多くなった。歳を重ねることによって、何事も他人に合わせられなくなるのも事実であるが、「何をするにも誰かと一緒じゃないと」と考えていると、有効なチャンスを逸しやりたいことも逃がしてしまう。

自分の世界に入り込んで楽しむのだから、他人と一緒でなくてもいいのではないだろうか。早い時期から老後に備えて一人で遊ぶ習慣を身につけておくべきだと思う。

映画、コンサートなどは、自分の世界に入り込んで楽しむことができる。特に美術展

は一人に限る。人それぞれ、好きな作品の前で足を止める時間が違うのだから当然のことである。家族で出かけた時でも、一歩館内に足を踏み入れた時から赤の他人である。

最近「タウンウオッチング」と称する街中ウオーキングを楽しんでいる。普段、通り過ぎてしまうような目立たないところに様々な発見があり、胸が躍り足腰が弾む。

心身が「負」になるまではと、今迄の経験を生かして奉仕する「社会還元」と未知の世界に挑戦して学ぶ「自己研鑽」に意を用いて、老春をエンジョイしている。

今回の同期会では、東日本大震災や福島原発事故の被災地に心を添えながら、恵まれた環境のなかで一同に会する機会を得た幸せを噛み締めた。参加者はそれぞれ自分の歩んだ掛け替えのない人生を満面に表し輝いて見えた。個々の関わりのなかで心の絆を確認し、多くの仲間の動静も了知することができた。またひとつ「財産」が増え、自分史に付加価値を付けて自身の世界が広がった。向後もさらに老いと闘い「錆びない生き方」をしていきたいと思う。

  病魔と闘っていた我らの盟友・小串泰三兄が昨年7月7日に、田内 堯兄が今年

4月28日に黄泉の国に旅立った。両名とは小・中・高と同じ学び舎に通い切磋琢磨した仲で、楽しみにしていた同期会での再会叶わず早世が悔やまれてならない。

ここに謹んで哀悼のまことを捧げご冥福をお祈り致します。

 

             

余 暇 と 遊     閑人の愚考 (H23・5・1寄稿)

今年のゴールデンウイークは、曜日配列に恵まれたにも拘わらず、長引く不況、日本列島のみならず世界中を震撼とさせた東日本大震災や福島原発事故などの災害、世界の各地で展開される民主化紛争の狼煙などの影響を受け、国内外の旅行者の数は、過去最大の落ち込みとなる見通しである。中でも情報過多による風評被害は甚大である。

 さて、サラリーマンの年間休日数は、一般的に週休2日と国民の祝日、そして有給休暇を完全消化することで、1年のうちほぼ3分の1となる。

 旅行もいいが、この約120日の休暇中、平均8時間強を一事に打ち込むとすれば、約1,000時間が与えられる。個人差はあろうが、語学の習得は上級レベルまで。新書判1冊を丹念に読んで約200冊。パソコン演習でも、ゴルフやテニスなどのスポーツにしても1,000時間のラリーは上達が約束される。特定ジャンルに絞れば、素人の域を出るかも知れない。子どもとの日頃のコミュニケーションギャップを埋めることも一案。 妻との共通の趣味を持てば定年離婚のリスクもヘッジできる。積極的に各種ボランテアの仲間入りをして、仕事以外の生きがいを持つこともできる。

 もっとも我が身に照らせばて、典型的な在宅型余暇に甘んじ、家でゴロ寝の粗大ゴミの口である。他人を気にしない余暇の過ごし方こそ自分の個性と割り切るのも一興か。しかし、せめて休養を教養に変えるぐらいの努力はしたい。こんな愚考自体が、あるいは休日の何よりの効用といえるかもしれない。

 かつて、日本人の働き過ぎが世界中の非難の的になった。日本人はただ働き過ぎだけではなく、有給休暇をとらないことも指摘された。国民性の問題なのか。社会システムの問題なのか。「真の達成感や充実感は仕事の中にある」「働くことで新たな発見や成長があり、心が豊かになる」「昔から日本人はコツコツ働き、努力することで成功してきた」など傾聴に値する先達の教えはあるが、知恵こそが価値を生む時代に働くだけでは意義を見出すことはできないと思う。我々は決して働き好きではない。周囲が働くから気兼ねをして休みが取りにくい環境下にあることも事実ではあるが、遊び方が上手くないために休暇を持て余し、休まない人間ができあがっているのではないだろうか。 

遊びという語感から不真面目、無目的、楽、自由などが連想される。何事も遊びであるべきだと思っているが、問題なのは努力の方向性である。仕事や人生をトータルに見て効率よく働かないと、思うような成果や幸せは得られないと思う。自らの判断でその時その時を楽しんで、しかも後味よく自由にやること。仕事とプライベートの垣根を低くし、遊びや趣味を生かしながら仕事のことも考え、仕事も生活の一部としてバランスよく積極的に楽しめたらいいと思う。いざ実行となるとなかなか難しいことである。 

我々は大人になるにつれて、子どもの頃のような遊びをなくしてしまう。それは、結果を得るために活動の過程を味わうことをおろそかにしてしまうからであろう。そもそも人間は、その時その時の行動過程を味わうことから幸せを感じるようになっているのだと思う。我々の身のまわりに展開するモノ中心の遊びは、ただ単に時間つぶしに過ぎないのではないだろうか。

遊び上手な人間になるために、ヒマな時間をどう遊ぶか。余暇、自由時間をうまく使って人生をどう充実させるか。長生きしても高々100年。結果より過程を楽しみ、自分の価値をよくしようと思わず、せいぜい遊んで幸せになりたい。



「敬老の日」に思う( H22・9・19寄稿)

 

9月20日は、1966年に制定された国民の祝日「敬老の日」である。

お年寄りを敬い大切にする日としながらも、今年は、敬うべき高齢者の所在不明が大きな社会問題となっており、自治体は安否確認や祝い金・記念品の受け渡しに苦慮している。また、生活環境の変化に伴い、心身ともに元気なお年寄りが増え「敬老」に抵抗感を抱く高齢者が数多くみられようになった。

「敬老の日」は兵庫県の山村で「日頃のご苦労に感謝し、お年寄りの知恵を大切にしながら村づくりをしよう」と農閑期の9月15日に敬老会が催され、「としよりの日」と定めたのが始まりと仄聞する。

世界保健機関(WHO)では、高齢者を65歳以上のものと定義しているが、

昨日まで64歳だったものが誕生日を迎えた今日から高齢者=老人と云われても戸惑うばかりである。

生物学的な「高齢者」の定義はあるのか? 岩波科学ライブラリーによると「老いとは、加齢とともに、特に生殖期以降、肉体的、精神的に衰えること」とある。私達の身体は生きている間、細胞分裂が繰り返えされており、老いの原因については「細胞の機能の衰え」が挙げられている。なぜ老化するのかは学者の数だけ学説があるといわれる。

昔は老化という考えはなく、老化は文明の進歩によってクローズアップされてきた問題である。遺伝子的に考えれば、生物は次の世代を残せば、個体としては消えてなくなっていいのであって、後生殖期が長いのが人間の特徴である。

戦後の高度経済成長で、規格大量生産の近代工業社会となり、工業製品ばかりか社会におけるハードもソフトも規格化され、人間の人生に至るまで規格化が進み枠に入れられた。個性の時代といわれながらも60歳で定年退職したら5年ぐらいで「老人」の仲間入りである。

急激に変動する社会にあって、老人であるか否かは自分が決めればよいことで、「敬老の日」は自分を老人だと思う人が敬ってもらえばいいと思う。

「高齢者」は「好齢者」として精一杯頑張ろうではないか・・・。

 




エジプト点描 インド点描  ロシア点描  スペイン点描 ペルー点描


旅への誘い (1)  ーエジプト点描 ( H21・8・6寄稿)

 近年、半年に一度海外出でる機会に恵まれ、未知の世界への探訪を満喫している。

これまで色々の国や地域を旅したが、まだまだ行ってみたいところが沢山ある。

なにしろ世界は広い。

それぞれに異なる気候・風土、多彩な歴史や文化があり、旅することでいろんな角度から大切なものが見えてくる。旅の楽しさ、印象深さを大きく左右するのは旅先での人との出会いである。

色々の人との触れ合いが、心に潤いと彩りを与えてくれ、人生を楽しく豊かなものにしてくれる。

それが旅の素敵なところである。

 前回のトルコに続き、今回はエジプト巡行を試みた。

欧米と異なり情報収集に些か苦労したものの、カイロ大学の協力を得て、素敵な遺産や美しい景観に感嘆した思い出深い旅となった。

主にナイル川流域に沿っての見聞であったが、点描してみることとする。

 7,000年もの悠久の時に育まれたエジプトには、人類の財産ともいえる世界的に貴重な遺産が数多くあり、ピラミッドやスフィンクス、ルクソールの神殿などは、21世紀迎えた今も世界中の人々を魅了し続けている。

エジプトの魅力は遺跡巡りだけに留まらず、暖かいもてなしで歓迎してくれるフレンドリーなエジプト人の素晴らしさにもある。

 「エジプトはナイルの賜物」を評されるナイル川は、東アフリカの二か所に水源を持ち、地中海に注ぐ全長6,650kmの世界最長を誇る大河である。毎年の氾濫で育まれた肥沃な土地には古代王国が築かれ、流域にはいくつもの文化が醸成された。

ギザ、ルクソール、アスワン、アブシンベルなど美しく壮大な遺跡が訪れる旅人を魅了している。

 古代王の権力の象徴は何といってもピラミッドである。

世界に名だたる三大ピラミッドは首都カイロ近郷のギザにある。

クフ、カフラー、メンカウラーの三人の王によって造られた偉大な建造物の前にスフィンクスが鎮座する光景は、見る者を圧倒してやまない。

 ナイル川の中流域に位置し古代の首都として栄えたルクソールは、他に類を見ない程の巨大建築が遺跡として残されており、「世界最大の野外博物館」と呼ばれている。

その特徴は、川の東西で遺跡の趣が全く異なっていることである。

「生者の都」東岸にはカルナック神殿、ルクソール神殿などの河岸神殿、「死者の都」西岸にはハトシェプスト女王葬祭殿、ツタンカーメン王の墓のある王家の谷などあり見どころが多く、西岸に沈む夕陽を見るとき、忘れ難い感動に出会えるはずである。

 スーダンとの国境に近い南部エジプトは、かつて先住民ヌビア人の地として独自の歴史を歩んできたところであり、ナイル川の聖なる小島に建つフィエラ神殿の美しさ、ピラミッドに比肩するスケールと迫力を誇るアブシンベル大神殿・小神殿は必見である。

遺跡とは別に20世紀の技術の粋を集めて造られたアスワン・ハイダム、穏やかにナイルの水を湛えるナセル湖などを訪れるとナイル川をより身近に感じることができる。

 エジプトの素顔に接するために効率性を重視した旅から転じ、訪問先の生活文化や人々に触れながらじっくり過ごす旅・スロートラベルで意外な発見があるかも知れない。










旅への誘い (2)  ー インド点描 ( H21・8・20寄稿)
 
 子どもの頃から憧れていた「神秘の国インド」に行く機会に恵まれ、期待に胸膨らませて準備に入ったものの情報の入手に困難を極め、インド大使館には随分お世話になった。

 何といっても5.000年の歴史を持つインドは大きい。

国土は日本の約10倍、約10億2千万人の国民が18の言葉を使って暮らしている。

自由獲得の激戦の後、1947年に独立した世界最大の民主国家である。

昨今、I Tや医療の分野で著しい発展を遂げ世界の注目を集めているが、一方、核不拡散条約を無視して核実験を行ったり、核燃料や原発用の技術・資材の輸入が特例的に認められるなど国際社会の原則を逸脱した行為等で話題を呈している。

かつてのカースト制度は廃止されたものの社会全体に見られる貧富の差は歴然としており、社会構造の不思議さを目の当たりにすることとなった。

 限られた条件下で未知の国・インドに足跡を印すために、今回は北インド地区の「ゴールデン・トライアングル」と云われるデリー、アグラ、ジャイプール地方を訪ねることとした。

主たる目的は史跡巡りで、五つの世界遺産の存在を確認することができたが、貧困からくる世情不安定な地方都市もあり、ジャイプールでは暴動に遭遇し危機に直面した。

 デリーはインド第一の玄関口で、13世紀の古い建物から超高層ビルまで、国会議事堂や大統領官邸からマーケットの雑踏まで、様々な要素の混在がこの町の特徴である。

世界遺産の「クトブ・ミナール」はイスラム教徒の最初の王朝を開いたアイバク王が戦勝記念のために建立した72.5mの塔で、デリーの中で最も古い建造物の一つである。

同じく「フマユーン廟」はムガール朝第二代皇帝フマユーンのために王妃が建造した霊廟で、ドームや白大理石を使った装飾はのちのムガール建築の原型となっている。

ヤムナー川の河畔に造られた建国の父マハトマ・ガンジーの慰霊碑のある「ラージガード」や第一次世界大戦で戦死した兵士を弔う高さ42mの「インド門」などを目に留めることができる。

 アグラ近隣には世界遺産が三つあり、なかでも最も有名なのは「タージマハル」である。

ムガール帝国第五代シャー・ジャハーンが他界した愛妻ムムターズ・マハルのために築いた霊廟で、白大理石を使い22年の歳月をかけて建てられた目を見張る建造物である。

「アグラ城」は第三代アクバルによって築かれ、四代、五代と3代に亘ってムガール皇帝の居城となった要塞で、堅固な城壁で囲まれた城内には宮殿やモスクなどの建物がならび訪れるものを飽きさせない。

この要塞からタージマハルの全体像を遠望することができる。

 ジャイプールへの途中ファテプールに寄り「ファテプール・シクリ」を訪ねた。第三代皇帝アクバルの旧都であったが、水不足と猛暑のため僅か14年で遷都したため、都城跡が完全な姿を残したまま廃墟となっている。

 城塞都市ジャイプールは、建物に使われた石の色からピンクシテと呼ばれている
ラージプート様式の5階建ての「風の宮殿」はその象徴的建物である。

首都の機能を果たしイスラム様式の美しい庭園と建物を残す「アンベール城」、マハラジャの財力で造られた宮殿「シテイ・パレス」「天文台」などが悠久の歴史を物語っている。

 インドは地理的にも歴史的にも、また文化や宗教の面でも実にバラエテに富んだ魅力を備えた国である。

 (タージマハル)









旅への誘い (3)  ー ロシア点描 ( H21・9・2寄稿)

 
 ロシア就航便のモニターとして搭乗することとなり、ロシアの地に足跡を残す機会を得た。

主な訪問地をモスクワとサンクトペテルブルグと定めた未知の世界への探訪である。

 11時amに成田を発って約10時間の飛行の後、15時pm過ぎにモスクワに到着。時差は6時間遅れ。

サンクトペテルブルグはモスクワから空路約1時間30分の旅程である。

 社会主義国・ロシアについては怖い、暗いというイメージが先行したが、2月のロシアは真っ白な雪が荘厳な建物に反射して眩しく、街は綺麗で、比較的物価が安く、一般市民の生活も質素に見受けられた。

ロシア人も思いのほか人当たりが良く、暖かいロシア料理が生活の知恵を教えてくれた。

料理の味付けは日本人好みであったが、馴染みのピロシキ、ボリシチ、ペリメニ、ビーフトロガノフなど日本でのレシビと少し違う感がした。

滞在中は暖かい日が続き、日中の気温は+1℃から−5℃の間を推移するほどで、日々安らぎと満足感を満喫することができた。

 先ず始めにロシアの首都・モスクワを訪ねた。モスクワ川の岸辺に建つクレムリン、赤の広場、レーニン廟などが歴史を物語る人口1,000万人を超える大都会である。

市街地はクレムリンを中心に整備されており、赤の広場近辺にはレーニン廟、聖ワシリー寺院、国立博物館やグム百貨店などが並びモスクワ観光の中心となっている。
 クレムリンは「城塞」を意味し、五角形の赤い城壁に包まれた内部には国政を司る政庁のほか、帝政ロシア時代の国教聖堂・ウスペンスキー大聖堂や歴代皇帝の財宝などが展示されている「武器庫」が威容を誇っている。

レーニン廟では衛兵の厳かな交代式に遭遇し、ロシア革命に思いを馳せた。

 トレチャコフ美術館は、ロシア絵画最大のコレクションを保有しており、ロシア美術やイコン画に触れることができた。

当時の社会背景を如実に反映させたリアリズム絵画から多くのものを訴えられた。

モスクワ川を挟んで、偉大な詩人プーシキンに関する資料等を展示するプーシキン博物館や美術館を訪ねることもできた。

 次に、ロマノフ王朝時代の歴史・文化に触れるためロシア第二の都市・サンクトペテルブルグを訪ねた。

運河が巡り、跳ね橋が架かり、白銀に輝く風景は美麗を極め、エルミタージュ美術館やエカテリーナ宮殿などの鑑賞を通して夢の実現である。

 エルミタージュ美術館は、ロマノフ王朝の王宮であり、巨大な宮殿に絵画、彫刻など約300万点もの美術品が集められたロシアが誇る最大の国立美術館で、400室の展示を二日掛りで鑑賞し芸術家たちの思いに触れたが、消化しきれず心を残した。

 エカテリーナ宮殿は豪華絢爛な内装が施され、さながらお伽話の世界に踏み込んだような錯覚にとらわれた。

中でも琥珀で被い尽くされた華麗な「琥珀の間」は必見に値する。

その他、駆け足なが「イサク寺院」「血の上の教会」「青銅の騎士」など主だった名所を見聞することができた。

 世界遺産指定の両都市とも整備が良く行き届いていて、訪れるものを飽きさせな
い。
広大かつ深い歴史を内在しながら現在も結構揺れている大国への旅であったが、資料や情報の少ないなかでの事前学習が如何に個人的成果を左右するかを実感する旅でもあった。










旅への誘い (4)  ー スペイン点描 ( H21・9・17寄稿)
 
 成田空港を昼前に発ち、イタリア・ミラノ経由で凡そ15時間後に芸術と情熱の国スペインの首都マドリードに到着した。

日本との時差は8時間、市内のホテルに着いたのは夕暮れ時であった。

治安があまり良くない?スペインで異文化に接する適度の緊張感は、時差ボケを感じさせない効用があった。

翌日からハードなスケジュールが待っている。

 まず、多くの名画を所蔵するプラド美術館を訪ねた。

パリのルーブル美術館、フィレンツエのウフイツツイ美術館と並んで世界三大美術館といわれている。

スペインといえばプラドであり、プラドといえばエルグレコ、ベラスケス、ゴヤである。

館内には16〜17世紀のハブスブルグ王家と18世紀からのブルボン王家が収集した膨大な数のコレクションが展示されている。

エルグレコは宮廷画家として宗教画を多く残しており、画風は後世のピカソにも影響を与えたといわれている。

バロック絵画の巨匠でもあったベラスケスの不朽の名作「ラス・メニーナス(女官)」や人物の性格描写を得意としたゴヤの馴染みのある「着衣のマハ」、「裸のマハ」などの作品を鑑賞することができた。

 次に、隣接する国立ソフア王妃芸術センターを訪ねた。

ピカソ、ミロ、ダリなどの現代アートが集めらており、ピカソの傑作「ゲルニカ」も展示されていて感動を呼ぶ。

 スペインは多くの芸術家を輩出しているが、これらの芸術家たちが地上から消えたあとも作品は後世に残り、時代と国境に関係なく人々を魅了し続けている。

旅程の関係での鑑賞時間の制約が悔やまれた。

以下、思い出を辿りながら幾つか点描してみることとする。

 青い空と白い壁、広漠とした風景が広がるラマンチャ地方に点在する風車は、著名なセルバンテスの「ドン・キホーテ」の世界を彷彿させるに十分な癒しの光景であった。

 クラシック・ギターの名曲として有名なタルレガ作曲の「アルハンブラ宮殿」と隣接する「フネラリーフ庭園」はグラナダの町が一望できる丘陵地にあり、その佇まいは地上の楽園を想像させるに十分な雰囲気を醸し出していた。

 話題の多いバルセロナの「サグラダ・ファミリア(聖家族教会)」は、建築家ガウデの死後も営々と建築が続いており、いつ完成するかわからないという興味ある建造物である。

また、周辺では、「カサ・ミラ」や「グエル公園」などガウデの数多くの遺作を見ることがでた。

 各地で遭遇した本場のフラメンコは、激しいリズムの踊りとともに様々な表情で語る物語にウエイトが置かれており、人間の内面にある喜怒哀楽が謳いあげられていた。

 青く澄んだ空と白い家々、輝く太陽と紺碧の海。マドリード、トレド、コルドバ、セビリア、ミハス、グラナダ、バレンシア、バルセロナと駆け足の旅であったが、地方によって文化や気候がそれぞれ異なり、多彩で個性的な魅力を放って輝いている様相を堪能すると共にスペインが誇る六つの世界遺産にも触れる機会を得ることができ感激した。

 スペインの都市の町並みはパリにも似て、歴史上の芸術家たちの美的感覚が今も脈々と受け継がれているという印象であった。
 









旅への誘い (5)  ー ペルー点描 ( H21・10・18寄稿)

幻の空中都市の謎が呼ぶ時空を超えたロマンを求めていよいよ地球の裏側・南米ペルーへの旅発ちである。
日本人が行きたい世界遺産ランキングでは常に上位に入るインカの失われた都市「マチュピチュ」探訪が今回の旅の主たる目的である。
成田からロサンゼルスまで約10時間、ロスからペルーの首都リマまで約
8時間30分、時差や乗り継ぎなどのロスタイムを含めると有に1日がかりの空の旅である。なにしろ世界は広い。
今回の南米の旅で五大陸全てに足跡を印すこととなった。

 まずはじめは首都リマからのスタートである。
「足の便」の都合上、右往左往しながらも最後は「ナスカの地上絵」まで辿り着き、満足度を高めることができた。

 旅程に従い思い出を辿りながら点描してみることとする。 


<リマ>

 ペルーの首都リマは、太平洋に面したコスタと呼ばれる乾燥大地に開けた大都市で、ペルーの人口の約三分の一が生活する政治・経済の中心地である。

 アルマス広場を核に築かれていった旧市街は、今なお17世紀のコロニアル時代の繁栄の様相を色濃く残しており世界遺産にも登録されている。
ペルー政庁、教会、カテドラルなどの粋を凝らした歴史的建造物がアルマス広場を囲み、荘厳な雰囲気を作り上げていて、古き良き時代へと旅人を誘う。
また、アンデスの幕開け時代からインカ時代までの歴史が詰まった国立博物館や金を中心とする発掘品を展示する黄金博物館などを訪ねることにより、ペルーの古代文化を知ることができる。

<クスコ>

 11〜12世紀頃に建設され、太陽神を崇拝するインカ帝国の都として栄えた。
しかし、16世紀にスペイン人の征服により神殿や宮殿の崩壊や金銀の略奪などの蛮行が行われ、そこにスペイン風の教会が建設したことにより都は一変したといわれている。
インカ時代、最も重要な建物であったコリカンチャと呼ばれた太陽の神殿はサント・ドミンゴ教会となって威容を誇っている。
標高3
,400mに広がるクスコの町並みはクスコ最大規模の要塞・サクサイワマンから一望することができる。
インカ時代の美しく精密な石組みとスペインのコロニアルな建築物が融合したクスコには独特の雰囲気が漂っていて、夜空に南十字星と天の川を見ることができた。
クスコはマチュピチュ行きの出発地でもあり、いつも観光客で賑わっている。
リマから飛行機でアンデス山脈を越え約
1時間30分の地である。

<マチュピチュ>   

 クスコから高原列車とシャトルバスを使ってウルバンバ川沿いを行くことおよそ114km、熱帯雨林のジャングルを抜けた先にそびえる標高2,300mの断崖に広がる遺跡に辿り着き、別世界のような光景を目の当たりにして、感動の余り固まってしまった。
数々の宮殿や神殿をはじめ、諸々の儀式に使われたと思われる広場、貴族と庶民に分けられた居住区、牢獄、幾重にも重なる段々畑、灌漑用水路まで築かれていて、ほぼ完璧な都市形態を整えている空中都市は、アンデス文明のなかでも抜きん出た不思議な存在である。
石造都市がなぜ尖った山の頂に建設されたのか?インカの隠れ家か、それとも要塞か?巨石をどこで切り出し、どのようにして運び、組み立てられたのか?謎ばかりである。
必要なのは、素直に感動する気持ちと好奇心、そして発想の柔軟さだろうか?黄金の大帝国・インカの栄華と滅亡。未だその多くが、霧のベールに包まれている。

<プーノ>

 アンデス山脈のほぼ中央に位置し、インカ帝国時代に天神降臨の地のひとつだったプーノは、チチカカ湖畔にある標高3,900mの町である。
空気の薄いこの町には、ケチュア族、アイマラ族など純粋なインデ
ヘナ人口が多く、伝統的なフルクローレ音楽の宝庫として知られている。
ボリビアとペルーの国境に横たわるチチカカ湖の島巡りで、葦を積み重ねて造られたウロス島に上陸した。
ふわふわと足が沈む浮島だ。
ここでは、家も船もすべて葦を束ねて造られている。
織物で有名なケチュア族のタキーレ島、プレ・インカの遺跡が残るアマンタニ島などを訪ねることで古代から継承されてきた独自の文化や暮らしに触れることもできる。

<ナスカ> 

 古代ナスかの人々が残した巨大な遺産「ナスカの地上絵」が最大の見どころである。
果てしなく続くペルー南部の乾燥地帯に描かれた謎の地上絵。
ナスカ文化の時代に描かれたこれらの絵は、上空からでなければその全貌を確認できないほど巨大であり、機上300mの遊覧飛行で鳥のような気分で眺めた。
直線や幾何学図形、動・植物、魚、虫、など様々である。砂漠の真ん中に建つ「観察やぐら・ミラドール」に上がると「手」や「木」の地上絵をもっと間近に見ることができる。
ナスカ文化は地上絵に見られるように、高度な技術と豊かな絵心を持った人が沢山いたと考えられ、ナスカの織物や土器に描かれた抽象画を見るときその昔を偲ぶことができる。

 

 あらゆる自然の対象物を通して謙虚に神と対峙していたペルー先住民と神の名のもとにあらゆるものを奪おうとしたスペイン人。
「黄金」という一つの物質を二つの民族が異なった視点で眺め、衝突が起こり決着したが、インカ帝国の運命を変えた「黄金」の文化、聖なる存在だった「黄金」に魅せられた文明は今も現代人のロマンをかきたてて止まない。

 ペルーは、些か日本から長い旅程の国であるが、それを乗り越えても余りある魅力溢れた価値ある国だと確信する。

 

    拙文ながら5回に分けて旅の思い出を綴ってみましたが、「旅友」になって頂けたでしょうか? 心に潤いと彩を添えてくれる「旅」って本当にいいものです。

  ひとまず筆を置きますが、気持ちはすでに未知の世界に羽ばたいています。